奇跡の存在

二宮神社


一年ぶりの更新になりました。
私の師であり友人であった四ノ宮園実が他界して一年。
その間本当にいろいろなことがありました。


ここ最近感じていたことは、生きている間、「自分の死」というものを切り離して、あたかも無いかのようにして生きている、ということでした。
簡単にいうと、「死」という良くないと思っているものは感じたくない、といった感じでしょうか。
でも、世の中には生も死もあり、光も闇も、男も女もニューハーフも、天使も悪魔もみんな在り、そのすべてが自分の中にも何かしらの状態で存在している。
そして在るものは在ると認めることから「今」、そして「等身大の自分」が現れるのだと。そしてその等身大の自分からしか、リアルな未来は作れない。
つまり自分の実態と感覚が一致していないと、リアルにならないのです。
リアルとは、単に物質があるということではなく、そこに実態と感覚の一致があるということなのだと思います。
このブログで、目に見えない存在についてもたくさん扱ってきて、特に自分の感覚(これも目には見えませんよね)を本当に信頼することがとても大事だということを伝えてきましたが、これからもっともっと大事になっていくと思います。


先日私の会社の事業、「城ラマ」の第三弾の候補を選定する目的で、天空の城として有名な(最近はいろいろなところが天空の城名乗ってますが・・)但馬竹田城に行ってきました。
竹田城のレポートはお城ジオラマ復元堂のブログで紹介するのですが、今日は朝来市にある二宮神社での出来事を紹介します。


通りすがりに自分の名前と同じ名前の神社を見つけ、「おっ!いいね」と自分が感じたただそれだけの理由で立ち寄った神社でしたが、おそらくもともと川だったであろう今は用水路となっている場所を超えるとすでに何か違う。
一つ目の鳥居をくぐると、予感が確信に変わる。そして、二つ目の鳥居を超えたときに、その場所が神聖で素晴らしい場所だということキャッチして、ものすごく心が喜んでいるのを感じていました。

朝来市にある二宮神社


その場所にある、知覚できるすべての存在とつながって手を天に伸ばしたとき、「風」、ではなく、空気の塊?いや「目に見えないが何かの存在」が上から垂直に降りてきて、近くの屋根の上に積もっていた落ち葉のほぼすべてを同心円上に動かしました。その落ち葉の円はあたかも水面に落とした水滴の波紋が広がるように、またそれが何かの意思をもっているかのように私のほうにやってきて体を駆け抜けていったのです。
自分で書いていて、いっちゃってるな・・・と思うのですが、(笑)それは自分の感覚が「何か」と共振した瞬間でした。


私たちはすべて波だといわれています。その波が人や物と共振した時にシンクロが起きて、奇跡が起きる。私たちはもちろん固有の波はもっていますが、その波は自分の状態で変わる、いや変えられる。合わせることができるのです。
自分以外のものに合わせることのできるというのは、私たち日本人が世界の中で最も特徴的にもっている能力だともいえます。



これだけだと、ただの偶然と思われるかもしれませんが、実は少し前にも似たような体験をしました。
それは群馬県のとある小さな神社に自分の感覚に導かれるまま行ったときですが、そこも、古代のにおいがプンプンして心が躍り、その空間に繋がって手を四つ叩いたところ、一筋の風が「びゅーっ」と吹きました。

群馬県みなかみの大穴琴平神社


すると、その神社の御神木と思われる木の15メートルほどの高さから、葉っぱの塊(小枝とでもいいましょうか)が一塊だけ、「ポン!」と押し出されてきて、くるくると回転しながら私の目の前に落ちてきました。
なんとその葉っぱ、地面に立ったのです!もちろん、その地面がその葉っぱが立つような奇跡的な形になっていたからなのですが、そうであるにしろ、15メートルもの高さから落ちてきた葉っぱ、普通は立ちません。本当にびっくりしました。

(写真ではわかりづらいかもしれないですが、緑色の葉っぱが地面の地形や下の枯葉がうまくベースを作って斜めに立っています)


このブログでも、私たちが奇跡の存在だということをたびたびメッセージとして発信していきました。
時代はものすごいスピードで変化しており、このような体験をしている方も一年前に比べたら多くなっていることと思います。
私たちが自分たちが奇跡の存在であるということを本当に受け取って、自らが愛の状態になった時に、本当に目の前に奇跡が起きるのかもしれません。
亡くなった四ノ宮園実も私たちは奇跡の存在であるということを何度も私たちに伝えてくれました。
その意味が最近よりリアルに体験として理解できるようになりました。


何事にも誰にも自分のパワーを明け渡すことなく、自分の感覚、愛を貫いていく。そして、自分と違う他人の多様性も認め、そこにある本質に価値を見出してつながっていく。するとその先には、私たちが想像もしなかったような素晴らしい幸せがあるかもしれません。私たちの考えも及ばないということは、当然不安や恐れが襲ってくる。でも、住み慣れた世界に戻るのではなく、その恐れや不安の枠を超えたときに見える世界に行ってみよう。
そう思っています。


久々に書いたら長くなってしまいました。

今日はこの辺で。