循環の中で生きるということ

光明寺


皆さん御無沙汰です。
「城ラマ」プロジェクトが結構忙しくて、ブログの更新がなかなかできませんでした。
っていっても単にやる気がなかっただけなんでしょうね。
いくつか理由はあるけど、結局それは「できない理由を探している」だけ・・・最近同じ言葉を息子にも言ったなぁ



最近循環ということについて考えていました。
この世界は循環によって成り立っている、っていうのは誰でも知っている話ですよね。
食物連鎖や大気の循環など、知識としては知っています。
でも、それを人生として実践というか、一つ一つの自分の行動に意識化しながら生きているかっていうとそうでもない。
ついつい目の前の「点」に意識が行ってしまう。
たとえば、人と話したり交渉なんかしているときは循環という大きな世界というよりも、相手と自分という狭い世界の中しか頭にないことが多いってこと。
つまり、この場で得をするか損をするか、とか勝つか負けるかみたいな。
でも、このやり取りも大きな循環の流れの中にいることを意識すると、自分だけではなく相手もハッピーになることを意識していろいろな決め事をしていくと、そのハッピーが相手を経由してさらに次につながって、さらにいろいろな人を経由して、最後に全く形を変えて戻ってくる。みたいな感覚になって、面白くなってしまいました。
ただし、相手のハッピーだけで自分がいなくなってしまうと本末転倒だと思いますので、自分もハッピーとうのはものすごく大事ですね。



でも利益をこのくらい上げなきゃとか、こうするべきみたいなもので自分を縛ってしまうと、その「みんなハッピー」からは遠のいてしまう。
もっと大きな循環の中で考えていきたいと思いました。



当然、ハッピーが形をかえてやってくるので、あの時にやったことが今ここにやってきた、みたいな目に見えるわかりやすい形ではないと思いますから、なかなか証明できないですが、そういう立ち位置でこれからも商売をやっていきたいと思います。
そういう意味でこのブログでも何度も話しているように、目に見えないことをどこまで信じられるかっていうのが大事ですね。



この世の中で現れているものは「結果」であって、原因は目に見えない世界の中にあるなんてよく言われています。目に見えていないものは、当然恐れもある。
確率なんて使っちゃうと、さらに恐れが増大するから、自分の感覚をあきらめて、わかりやすい基準を使って生きようとする。
そして、何かを理由にして「しょうがない」とあきらめる。
でもそれって本当は生きていないのかもしれません。生の循環とうサイクルの中に「自分」という存在が入っていないというか、循環を止めてしまうというか。



もちろん、人それぞれの考えがあるので、どのように事象をとらえても構わないと思います。でも、どのような持論や考え方をもっていても、それを自分やみんながハッピーになる方向、循環の方向に使わなかったら意味がない。だだの言い訳になってしまう。
そしてその自分の放ったエネルギーの先のハッピーを意識して、人生を生きることがとても大事。だって、また自分のところに戻ってくるのですからね。
そういう個人個人の意識の積み重ねが少しずつ大きくなって、世界が少しずつ、そしてある日突然変わっていくのでしょうね。



今日はこの辺で!



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