高天神城と武田勝頼

高天神城遠景

 先日出張の折、高天神城跡に寄って来ました。
このブログでも何度か話をしていますが、私の趣味の一つに「城跡めぐり」があります。この高天神城跡は過去にも訪問したことがありましたが、お客様との打ち合わせが終わり、帰ろうとしたらなんとなく気になったので行ってきました。
 高天神城と聞いても、城マニアか歴史に興味のあるひと以外は知らないかもしれませんが、戦国時代は徳川と武田の争奪の地となっていたところです。
また、攻め落とすのがとても難しい城だといわれていて、それはこの城を登ってみると結構実感したりします。



 武田信玄亡き後、息子の勝頼は天正二年(1574年)高天神城を攻め、父信玄さえを落とせなかった城を落とし、これにより勝頼の武名は一気に高まりました。
この直前にも勝頼は美濃に侵入し、織田側の城を明智城以下18の城を攻め落としたといい、信長も「武田四郎は若輩であるが、信玄の掟をよく守って、表裏の駆け引きが大変うまく油断ならない・・・」と勝頼を警戒している。
 しかし、結果的にはこの勝頼の連戦連勝は、信長を本気にさせる結果となり、それが翌年あの「長篠の戦い」へと結びついていく。おそらく勝頼にとってこの高天神城を攻略したときが、絶頂だったのではないかと思います。
また、一旦は武田側の勢力にはいった高天神城長篠の戦いから5年後の天正8年(1580年)から徳川家康の攻撃をうけ、持久戦の末翌年天正9年(1581年)に開城し、その後まもなく廃城になります。さらにその翌年の天正10年(1582年)には織田信長が甲斐に侵入しついに武田家は滅亡します。
なんだか、高天神城の運命と勝頼の運命に少しシンクロを感じてしまいますね



 武田勝頼は実は武田家の正式な跡取りではなく、陣代という微妙な立場にいました。また、父信玄を神のように崇拝する家臣団との間には軋轢があり、自分の立場を確立するためには、戦いに勝って自分が父以上の存在であることを証明する必要があったとも言われています。「父を超えたい」という気持ちは父をもつ男子であれば一度は通る道でしょうし、私も少なからず実感はあります。それが、たとえ父が亡くなってしまっていたとしても、いや、逆に父が亡くなってしまっていたからそこ、勝頼は心の中にいる永遠にこえることのできない父の幻と自分との間に葛藤があったのだと思います。
 高天神城の馬場や御前曲輪からは遠く遠州灘がよく見えます。
勝頼がここからの景色を眺めたかどうかは分かりませんが、もし眺めたとしたら何を思っていたのでしょうか。
勝頼が自分と父を比べるのではなく、勝頼でいること、つまり自らと向き合い、自分自身を生きることを選択したら運命は変わっていたのかもしれませんね。



 さて、高天神城の西の丸にはこの城を守護する神社として「高天神社」という神社があります。
祭神は高皇産霊尊、天菩毘命、そして「天神」だけに菅原道真、の3柱を祀っております。
そういえば、最近は北野神社という神社を立て続けに2社回らされることになりましたが、その神社も祭神は「菅原道真」、これも小さなシンクロか
そして菅原道真というと菅総理の先祖になりますが、最近は民主党の代表選も控え、政界もなにやら動きが出てきそうな感じもしています。どうなる日本!!
そんなことが気になりつつ、また次回お会いしましょう。

では。