勝海舟と西郷隆盛

洗足池(大田区のHPより)


昨日は昼間のぽかぽか陽気に誘われて、近所の洗足池公園に行ってきた。
私と洗足池の付き合いは、遠く小学校時代に遡る。
小学校の時、入った野球チームの練習場が洗足池の脇の野球場で、それ以来桜の花見のときなど度々訪れるスポットです。



洗足池の名前の由来は日蓮上人がその昔足を洗ったとか・・・
池にはスワンボートなどがあって、休日になると家族連れやカップルでにぎわう、まぁ、簡単に言うと都会のオアシスですな。
他にも平安時代宇治川の合戦で磨墨に乗ずる梶原景季と先陣争いをした佐々木高綱の愛馬”池月”(いけづき)の伝説の残っている千束八幡神社があったりしてちょっとした観光スポットになっているのですが、洗足池の畔にはなんと「勝海舟」夫妻の墓があります。



勝海舟幕臣で、日本の未来の為に江戸城無血開城西郷隆盛とともにやってのけた、幕末の偉人です。勝海舟はこの洗足池をたいそう気に入り、別邸「洗足軒」を建てて過ごしたといい、西郷隆盛もここに訪れたといいます。
日本の歴史の中には、すばらしい偉人がたくさんいるが、勝海舟は「この人がいなかったら、今の日本はどうなっていただろう」ということを考えさせられる人の一人です。



彼は幕末の動乱期に幕臣という立場でありながら、日本という国の為に考え、行動しました。
歴史にIFは無いけれど、現在教科書では一行で片付けられてしまう「江戸城無血開城」も、勝と西郷という大局を見る二人の偉人がいなければ不可能であっただけでなく、場合によっては日本は幕府が担ぐフランスと薩摩が担ぐイギリスとの代理戦争になり、国内は疲弊し、国が分裂もしくは植民地になった可能性もあると私は考えます。
つまり、今の日本があるのは彼らのお陰といってもいいでしょう。



そして、その勝夫妻の墓の隣には留魂祠という西郷隆盛を祭神とした祠がひっそりと立っております。
これは、勝が西郷の死後、東京葛飾にあったものを、この場所に移したものといわれています。西郷の心の底を理解していたのは、勝だけだったということなのでしょうか。
ここには西郷の書いた漢詩があり、西郷の生死感が判ります。



朝に恩遇(おんぐう)を蒙(こうむ)り 夕に焚坑(ふんこう)せらる

人生の浮沈 晦明(かいめい)に似たり

縦(ほしいまま)に光を回(めぐ)らさざるも 葵は陽に向かう

若し運を開くなきも 意は誠を推す

洛陽の知己 皆鬼と為り

南嶼(なんしょ)の俘囚(ふしゅう) 獨(ひと)り生を竊(ぬす)む

生死何ぞ疑わん 天の付與(ふよ)なるを

願わくば魂魄(こんぱく)留めて 皇城(おうじょう)を護らん


つまり、人生は浮き沈みが多く人の生き死には決まっているが、自分のたましいは長く祖国を守りたいという意味です。



そんな場所にたたずんでいると、勝と西郷の魂がいまでも洗足の池を眺めながら日本の将来を語り合っているように感じます。
英雄は英雄を知るといいます。西郷の知名度に比べ、勝の知名度は低いように思いますが、西郷は心の底から勝という男の気概を感じていたのでしょう。



勝が言ったとされている言葉です。
「やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせなるようにしかならないよ」
最近は結果主義が蔓延していて、自らの責任で行動を起こすことが非常に窮屈に感じられる世の中になってきているような気がします。
現在の日本人に勝のような大英断を下せるでしょうか。



このような日本のすばらしい偉人に、生き方や行動哲学を学び、語り伝えるべきだ。
そこから学べは、最近問題となっている社会マナーなんかも問題にならないのではないか・・・。

そんなことを考えながら、勝夫妻と南洲先生(西郷のこと)に手を合わせ、「そういえば、勝海舟を尊敬するあまり、自分の子供に麟太郎(勝海舟の幼名)と名づけた友達もいたっけなぁ」なんて独り言を言いながら洗足池を後にする私でありました。



これでおしまい・・・(勝海舟最後の言葉)