一乗谷で感じた許し

一乗谷朝倉氏館跡


 先日友人の案内で福井県に友人数人と行ってきました。
その友人とは前のブログで紹介した「日本を探ろう!」というイベントを企画した人です。
彼は大手のコンピューター会社に勤める傍ら、ベンチャー企業の経営者とのパイプつくりをしたり、色々な顔を持つ才能豊かな人です。彼は福井県に人脈というか、心を許せる友人が何人もおり、その人たちとの交流も目的の一つでもありました。
 基本的に現地でのスケジュールは彼にお任せしておりましたが、回るルートは彼の福井の友人が、まぁ、平たく言えば直感で回るというものでした。
私は旅行は好きなのですが、スケジュール管理される旅行は大嫌いで、そういう意味ではとても私にマッチしていました。



 回るスポットも私好みの神社仏閣、歴史スポットが多く、大興奮でした。
色々な気づきや発見があまりにも多すぎて、いっぺんに書ききれないのですが、今回は戦国大名朝倉氏の本拠である一乗谷を訪ねたときのことを書きます。
 この一乗谷戦国大名朝倉氏の本拠地として、15−16世紀にかけて朝倉孝景から義景まで5代約100年にわたって栄華を誇ったところです。
最近発掘調査が行われていて、かなり復元が進み、史跡として整備がどんどん進んでいますので、これからも楽しみな史跡です。



 さて、最後の当主義景は1573年織田信長に滅ぼされ、一乗谷は焼かれ廃塵と化します。
朝倉家は越前の守護代として君臨しました。守護代とは守護の斯波氏を補佐する役割ですが、室町時代とくに戦国時代は地元に根付いた守護代がしばしば実権を握るようになります。
 そして、朝倉家を滅ぼした織田家尾張戦国大名ですが、実は織田家の先祖は越前の織田にある剣神社の神官という説が有力です。そして、信長は織田家のなかでも傍系、わかりやすくいうと格下の家柄であったから、名家を自負する朝倉義景は自分の格下にあたる織田信長に頭を下げることが出来なかったとも言われています。



 私は今回のコースに一乗谷が入っていることを知らなかったのですが、(まぁ厳密にいうと流れできまったので、元々コースに入っていたわけではないのですが)みんなとの集合時間の前にひと足早く福井入りして、ある神社を訪ねました。 そう、織田にある剣神社です。
私はただ、戦国大名好きということで、信長の織田家発祥の地としての剣神社を見ておきたかったのですが、偶然にも因縁の仲である「織田」と「朝倉」のスポットを同時に回ることになったのです。
そして、一乗谷の「朝倉氏館跡」に入ると朝倉義景の墓塔が真っ先に目に入りましたので、なんか運命のような気がしてそこに行き供養させて頂きました。
 わたくしも生じか悲しい歴史を知っているだけに「ここで織田と朝倉の争いを終わらせよう」などとちょっとセンチな感情に入りまして、ただただ涙していたのですが、実際墓塔の前に座ってみると感じたのはただただ許しのエネルギーだけでした。織田と朝倉の争いに投影していたのは、自分の心の中の争いであり、そして許しも自分に対する許しだということに気付くのにそう時間はかかりませんでした。
人間は間違いや過ちを犯すもの。それをただただ許すという事が人間の本質として如何に大事かということを義景に教えてもらったように思いました。
他人を許すということは自分を許すこと。前回のブログとも関連しますが、どんな自分も許していこうと思いました。



朝倉義景の辞世の句と言われているものです。
七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
(苦しみもがいた四十年の生涯であったが、結局他も無く自も無く本来空しいものであった)



一乗谷の穏やかな風景を眺めていると、義景はただただこの町や自分の国を良くしたかったし、そこに住む民、子や妻を守りたかったんだな〜ということを感じました。
そして、そこにはただただ愛があるということを・・・


紙面の関係もありますので、本日はこの辺で。