天海と光秀

h-ninomiya2009-11-11


 11月に入りました。
いよいよ紅葉が色づいてきまして、どこか紅葉狩りにでも行って、日本の風情を楽しみたいな〜と思っています。
先日テレビをみていたら日光の紅葉を特集しておりました。
私は東京都内の小学校でしたが、小学校6年生のときの林間学校は日光でしたし、車の免許をとって車の運転が楽しくてしょうがない時期や、社会人になってもゴルフを始めた時期にもよく日光に行っていたな〜というのを思い出しておりました。
そうそう、もう10年位前になりますが、会社の同僚と一泊でゴルフに行ったときに、中禅寺湖畔の日光二荒山神社中宮祠で行われいたお祭りのカラオケ大会にみんなで参加して、準優勝をしたのも思い出しました〜。確か、曲は GETWILD BY TMネットワークだった。懐かしいね〜



 さてさて、これから紅葉狩りに日光にでも行こうと思っているあなた!
日光といえば家康、東照宮!と言いたい所ですが、私は「あえて言おう、天海であると
天海というのは、一度は日本史で名前は聞いたことがある人もいるかと思います。
普通の学校の授業では「家康の懐刀」ということ以外学びませんが、この人は非常に謎に満ちた人物で、実はお墓が東照宮のとなり輪王寺の慈眼堂にあります。
家康の墓には多くの観光客が押し寄せますが、この天海の墓までいくのは相当物好きな人しかいないと思いますが・・・
彼は風水や陰陽道に基づいた江戸の街づくりをした中心自分物と言われていて、例えば江戸の鬼門に当たる方向に上野寛永寺を建立したり、今でも地名としてのこってる「目白」や「目黒」は徳川家光が天海の建言により五色不動を制定したことによるとも言われています。



 しかし、一説では天海は明智光秀ではないかとも言われているのです
これは天海の前半生は謎に包まれていてはっきりしていないことから出てきたものですが、実際天海と明智光秀をつなぐキーワードは幾つか存在しています。
まず、天海の墓がある日光ですが、いろは坂の途中に「明智平」という場所があります(たしか、ロープウェーか何かがあったような・・)。なぜここを明智平というのか良く分かりません。
また、滋賀県大津市坂本にも慈眼堂という天海の廟所があるのですが、この坂本の地は以前明智光秀の領地だった場所でもあります。
天海が光秀だったかは別としても、光秀が江戸時代まで生き延びていた可能性がある証拠があります。
それは、比叡山飯室谷長寿院に寄進された現存石燈篭の銘文です。そこには「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と書かれています。慶長二十年といえば西暦でいうと1615年、これは大坂夏の陣があった年です。光秀は通説では1582年になくなっていますので、この燈篭は誰が寄進したのかというのも謎です。
この光秀の謎というのは、実は本能寺の変とも繋がっているような気がしてなりませんが、歴史ミステリーというのは色々空想できて楽しいですね



 最近は若い女性の「歴女」ブームや「スピリチュアル」ブームなどがあるようですが、日光というのはその両方がしっかり味わえると思います。まぁ、天海は「妖僧・天海」とも呼ばれていたので、スピリチュアルといってもちょっとオドロオドロしい感じもしますが(笑)
ゆば料理や鮎料理なども、とても美味しいですしね。
なんだか、旅行会社の社員ブログみたいになってしまった(笑)
今回書こうと思っていた内容と全然違ってしまったけど、これも成り行き・・まぁ、いいでしょう。

それでは、また!