今川義元から学ぶ

今川義元胴塚


 先日出張のついでに今川義元の墓に行ってまいりました。歴史上の有名人の墓というのは複数存在することが多く、今川義元の墓も漏れなくそうなんですが、そのうち愛知県豊川市にある大聖寺にある墓(胴塚)に行ってきました。案内板によると、桶狭間の戦い織田信長に討ち取られ、胴だけになってしまった義元の遺体は、家臣によって運ばれましたが、遺体の腐食が早く駿府まで持たなかったので、大聖寺に埋葬されたそうです。
その大聖寺は元々城跡だったようで、この地において息子の氏真が義元3回忌の法要をこの寺で行ったそうですが、現在のある大聖寺はあまり目立たないところ(分かりづらいところ)にあり、ちょっと寂しい感じもしました。



 今川義元といえば、桶狭間の戦いで兵力的には圧倒的有利であったにもかかわらず織田信長に負け、敗死してしまった為、後世の物語等で愚将のイメージが付いてしまいましたが、実際は内政・軍事の両面で素晴らしい功績を残した戦国大名だったようです。
ドラマ等では良家のお坊ちゃま風に描かれてしまう義元ですが、当主継承の際は異母兄と跡目争いをし、その混乱に乗じて西から織田氏、東からは北条氏の干渉を受け、実力でそれを排除します。また、私の尊敬する武田信玄の義兄にあたります(信玄の姉が義元に嫁ぐ)が、信玄の依頼を受けこう着状態に陥った西暦1555年の川中島の戦い(通称第二次川中島の戦いと呼ばれている)においては、武田・上杉両軍の仲裁をし、両陣営の軍を引かせています。
当時戦国最強と呼ばれた武田・上杉の仲裁ができるということは、当時の今川の力が相当認められていたということになると思います。


さて、一人しかいない今川義元が色々な風に描かれているのはどういうことなのでしょうか?不思議ですね。
私も、昔は義元が愚将だと思っていました。しかし、歴史の研究(というのは少し大げさですが)をしていく中で、そんなことはない、と思うようになりましたが、今でも巷の評価は決して高いとはいえないと思います。
例えば、功績の殆どが義元自身ではなく軍師(と呼べるか分かりませんが分かりやすいようにこういう表現にしますが)である、太原雪斎の功績ではないかとか、色々言われています。
まぁ、確かにそれは全くないわけでは無いでしょうが、雪斎一人で何でも出来るわけではなく、それには必ず義元はからんでおり、雪斎はほかでもなく義元に仕えたということは、雪斎も義元のなかになにかキラリと光る何かを見たのでしょう。



これらから分かるのは、「人間は自分で見たいようにしか物事を見ない」ということではないでしょうか。
同じ状況をみてもある人は善意的に判断し、ある人は悪意をもって判断する。
それは、その人のその時の価値観や観念によっていかようにも変わってしまう。
我々は常にその観念というフィルターを通してしか物事を見ていないのではないでしょうか。
観念を外して物事を見たときに真の姿が現れる。そんな気がしています。
そこには、ただ事実とその現象を引き起こしたその人の愛だけが見えるのではないのでしょうか



今川義元の墓に手を合わせて感じたことです。