目的を見失わない

石巻神社 山宮


仕事でも家庭でもそうなのですが、目の前の現象に振り回されることが多いな、と思うことが多いです。
本来仕事でも家庭においても大きな目的というのがあるのだと思います。例えば仕事で言うとプロジェクトの達成とか、もっと大きな意味からいうと皆の幸せとか。家庭でも家族の幸せとか。
でも、目の前における権力闘争っていうか、その現象自体がそこに関わる人間同士の優越感を求めるだけの争いの場となってしまったり、また、大きな目的を見失いその「作業」自体(たとえば報告書と提出するとか)が目的になってしまっていることが多くあるな、と感じています。



最近の政治情勢を見ていても、他人様のことだからそれはそれはとても良く分かりますね(笑)。
でも自分がそうなっているなんていうのはあまり意識しないのですが、例えばある営業マンが息抜きのため、ふらっとパチンコ屋さんに立ち寄ったとします。本来の目的は当然パチンコをすることではないのですが、これが半ば中毒となってしまい、さらにややこしいことにはある時大当たりして嵌ってしまった!なんていう良くある話。
そのときその営業マンはいつのまにか「パチンコで大当たりすること」が目的になってしまっているのですよね。
現象がパチンコかどうかは別として、そのような経験は思い出せると思います。



そのようなことに陥らないためにも、自分の意識をどんどん拡大させていき、もっと言うと家庭とか仕事とかそういう枠を超えて、本当の自分の人生の目的に向かっているか?ということ常に意識することがとても大事だと思います。
そして、その目的は固定化させるのではなく、さらに大きな目的に向かって常にに変容することを自分に許す、というのが大切です。
各個人が自分の目的をさらに大きなものに拡大していき続けた先に、人類が集合意識として向かう先が具現化していくのではないかと思います。
時代がどの方向に進むかというのが、どのような偉大なリーダーが誕生するかとか、どのような偉大な発明が起きてテクノロジーが進化するかではなく、あくまで私達個人個人の目的、意識が大切なのだと思います。
つまり、極論を言えば人類の未来は「私達個人個人」が握っているということです。
そのためには私達が自分自身のもっている力を本当に受け取り、それを人類の輝く未来のために貢献できるように行使する。
カバラで云うところの「利他の為に貢献意識をもって自分のことをやる」ことなのだと思います。



そういうことを云うと、「自分自身の為にやっちゃいけないの〜?」と言う言葉が聞こえてきそうですが、それもOKだと思います。ただ、そこに居続けない。もっと大きな目的の為に動きたくなったら、そこに執着せずに手放せばよいのだと思います。つまり自分が変容することを許せばいいのです。
人生は楽しむものだ、という言葉をよく聞きますが、楽しさはそのときは楽しいのですが、あっという間に消えてなくなり、次の楽しさを求めてしまいます
例えば世界の聖人と言われている人たちは、なぜあそこまでの貢献意識があって人類の為に奉仕ができるのでしょうか。私目線からするともっと楽しいことを沢山やっても良いんじゃないかとも思ったりします。しかし、ひょっとしたら彼らは私達がまだ知らないだけで、本当は素晴らしい世界、「楽しさ」を越えた「喜びが満ち溢れている世界」を知ってしまっているだけなのかもしれません。そして楽しむことは目的ではなく、真の目的に到達するための手段の一つなのではないか・・と思っております。



当然、その素晴らしい世界は当然私もまだ知らないのですが、最近ちょとだけ「真の喜びとは?」と言う事に興味が出てきています。そして人生の目的が「喜びを分かち合うこと」なのではないかと思い始めていて、その目的を見失わないようにしよう!と心がけております
なんて格好のいいことを書いていますが、「喜び」がなぜかタイピングで何度も何度も「世転び」になってしまうのは、深い意識のなかでは「世の中が転覆するのを望んでいるのか!?」(笑)と思ってしまいます。間違っても「国家安康」なんて書いて目をつけられないようにしなくては!(意味わかるかな?)



では、今日はこの辺で。