心の分離感と天皇制

津久井諏訪神社の大杉


先日ブータン国王が来日して、ちょっとしたフィーバーになっておりましたね。ブータンという国がいかに日本という国をリスペクトしているかということを受け取らせていただきましたが、マスコミはなんか軽く扱いすぎですね。どこかのアイドルが来たのとあまり変わらない報道ぶりだったように思います。まぁ、新婚旅行ということもあるし、そうでなくても確かにいい男だったとは思いますが。



しかし国賓が来日しているにもかかわらず、晩餐会に欠席した議員がいたり、晩餐会の途中で携帯電話をしたりした議員がいたという報道を聞くにつけ、本当に残念な気持ちになりました
なぜそのようなことが起きたのでしょうか。
それは、私達日本人が自分達の国家元首、つまり天皇というものを軽く扱っているからだとおもいました。



天皇というものがどういうものなのか、それは特に戦後の教育の中で曖昧というか、軽く扱われてきたと思っています。私は右翼でも左翼でもありませんが、わが国の歴史をみていくと、天皇をなくしてわが国の歴史は語れません。そして、私達日本人が世界に稀な素晴らしい民族、来日したブータン国王の言葉を借りるならば
「世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民」なのであり、
そのような資質は間違いなく私達の歴史に裏づけされたもので、その歴史と今の我々が不可分なように天皇という存在も、いいとか悪いとか好きとか嫌いで判断されるものではなく、不可分のものなのです。(さらに言うとその歴史は土地、この日本の大地によって作られたのだと思いますが)
そのことを無視して、教科書では「日本国民の象徴」という一言で勉強が終わってしまい、天皇や国歌や国旗を軽んじる。そのような教育が、引いては相手の国家元首を軽んじる結果になるのではないでしょうか。



でもアメリカのオバマ大統領が来ていたらきっとそんなことはやらなかったでしょうね。何ででしょう。アメリカが強いから?
国や国家元首に強いとか弱いとか、重要とかそうでないとかあるのでしょうか。国は国、国家元首国家元首、大きいとか小さいとか、強いとか弱いとか、そういう比較の教育もこのような事態を引き起こしてしまったのではないかと思います。いつから日本はそんな情けない国になったのですかね。昔はアジア解放のために大国相手に怯むことなく挑んだのではないですか?
そうすると戦後ですか?天皇の存在が曖昧になり歴史の中の意味が軽んじられてきた時期と同じですね。
つまり戦後教育によって天皇が日本人の心から分離したことにより、私達のアイデンティティーの柱がずれ、日本人の本来もっていた資質がずれてしまったように思います。



私が言いたいのは天皇を尊敬しなさいとか、しないやつは失敬だとか、そういうことを言いたいのではなく、あるものはある、ということを認めることが大事だということが言いたいのです。天皇は存在しているのに、あたかもないかのように扱われている、天皇と日本との間に分離がある、それが問題だといっているのです。
つまり、日本人にとっての天皇の問題というのは実は無意識のうちに日本人の心の問題に少なからず影響を与えているのではないかと思ったのです。



奇しくもブータン王国というのは、国民の心理的幸福などを指標とする「国民総幸福量」(GNH)を重視する国だそうで、このタイミングでわが国に来日するということに、なにかメッセージを感じます。
本当の幸福とはなんなのか?
心の幸せと物質的な幸せと、どのようなバランスを取れるのか。
何が虚で何が実なのか。
心の分離感を統べるには何を手放し、何を統合していくのか。
それを考える機会を与えていただいたような気がします。
私達が、「今」本当は全てが与えられているということを理解するときに親がただ存在してくれていることが素晴らしいことだということに気付き、同時に天皇の存在もそれと同じことなのだと理解する日が来るのかもしれません。
天と自分との関係が親と自分との関係であり、天皇と国民の関係の投影なのだということに気付いてしまいました。
ふふふ・・


では、今日はこの辺で