見えない世界

飛騨一宮水無神社


この世は見えない世界のほうがでかい!圧倒的にでかい。
自分で認識できるものは実はほんの数パーセントといわれています。
認識できない見えない世界の代表というか、最たるものが「神」の世界。
神様は目に見えない存在。
それを信じられるかどうかは、見えない世界の存在を受け入れられるかどうか。
つまり「神」とは見えない自己まで拡大された自分そのものなのかもしれません。



少し話はずれますが、かの織田信長は宗教を代表とする自己以外の拠り所を否定し、徹底的に破壊をした、という印象があります。
延暦寺の焼き討ちはあった説となかった説がありますが、少なくとも延暦寺を焼き討ちしたのであれば、信長の意図はそこにあったと感じています。
つまり、自分以外のものにパワーを明け渡してはいけない、ということ。
それは「自己責任」につながります。

今後世界はそのような方向に進んでいく、という確信があります。



しかし、今年にはいってそれを逆走するかのような現象を目の当たりにすることが多くなりました。
まず、正月のタイでの出来事。
なぜかタイ人2人から仏像をもらいました。いままで何回もタイに行っていますが仏像をプレゼントしてもらったのは初めて。しかも2人も。
仏像はある意味「偶像崇拝」の象徴。
そして、年始に会社の近くの神社で引いたおみくじには「福神御像」と書かれた小さなご神体が同封されていました。
そして、家族での年始の参拝に行った神社では、拝殿の中に「イザナギイザナミ」、そして「アマテラス」の人間のような人物画というか神様画というかが描かれていました。
いずれも、今年に入ってからの現象です。
まぁ、仏教はよいでしょう。仏像があっても。
でも神道はどうなのよ!鏡に映しだされた自分と向き合うのが神道ではなくって?(ミライ・ヤシマ調でお願いします)っていうのが今年の年始。



ここから感じるのは先が見えない時代になっている、つまり「目に見えない」という「不安」を所有できない、「怖い」のだな・・ということ。
もちろん、自分ももれなくそう
なぜなら自分の目の前に現れている現象だから、自分が感じていることだから自分に関係がある。
目に見えないものの片方には「わくわく」もあるけれど「恐れ」も同時に存在している
ただ、この「恐れ」の感覚にしっかり向き合うとちゃんと「わくわく」もあることがわかる。すると足を引っ張るような気がしていた「恐れ」が実は前に進む為の大きな推進力であることがわかる。つまり、闇が光に変わる
でもこの「恐れ」に向き合わないとその中に「わくわく」を感じることができない。でも「わくわく」を感じたいから、ほかに逃避先、つまり一見楽しく思えることや、何かに依存してその不安から逃れる。または、目の前の現象に不安を投影して対して怒ったり・・・
結局自分と向き合わない限りいつまでたっても「恐れ」からは逃れられない、ってことを改めて感じました。



そして仏像。
ある見方として偶像崇拝の象徴のようにとらえていましたが、一方でその美しさの奥にある作り手の思い、もしくはそれを送ってくれた人の思い、これにつながると確かに仏の教えの何かに繋がる感覚も同時に感じます。目の前の仏像一つとってもいろいろな投影の仕方があり、勉強になります。



2013年、今年も目の前に起きることを、受け取って受け取って受け取って進みます



以上



タイのTAPACOで働く仲間、募集しております。
目に見えない不安を「わくわく」に変えていく!という方、お待ちしております。
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