目の前の本質

浅野文庫長篠城


前回の[城郭復元プロジェクト]のブログ第十話:手作りの美しさにおいて、私が手作りの美しさを体験したくて、本来必要のないものを発注してしまい、失敗感を感じたということを記事にしました。
しかし、この体験は私が「自分が目の前のことを本当に受け取っていない」ということを再認識できたということでとても意味のある体験でした。
どういうことかというと、失敗した!と思ってその感覚に埋もれた時に、納品された手作り品は制作上「要らない」ものになったわけで、しかも失敗感を感じ自分を責めている私はその品物が「あんまり見たくないもの」になってしまったわけです。大げさに言うと「価値がないもの」になってしまったのでした。



これを人間に例えるなら、自分の都合(好きとか嫌いとか仕事にとって必要とか必要じゃないとか理由は様々)で、目の前の人が「価値のある人」でなくなってしまうことがある。これって、本当に悲しいことだと思いました。
本来その人の持っている価値、モノの持っている価値というのは自分の都合で優劣がつくわけでもなく、そこに存在している絶対的な価値というのがあるのだと思います。
でも、自分に合うとか合わないとか、そういう理由でその価値が見えなくなってしまい、「無いもの」にさえしてしまうのです。
もちろん好みはあるでしょうし、好きとか嫌いとか言ってはいけないと言っているのではないです。それはそれでいいのですが、そのことと「そのものの価値」違うものだということなのです。



私は「自分の失敗感という自意識」(自分を責めている状態)を外し、ただ失敗を認めたときに、目の前にある手作り品の素晴らしさが「ポン!」と感覚的に入ってきたのでした。
その品物が本当に素晴らしいと思いました。

ガンダムユニコーンでもフルフロンタルが「過ちを気に病むことはない。ただ認めて次の糧にすればいい。それが大人の特権だ」と言っていました。

大人の特権かどうかは別として、この言葉の深い意味も受け取っちゃいました(笑)

さらに昨日、製作者を訪ねた際にもっと驚いたことがありました。
実はこの品物を作るために実に18色にもおよぶ色を使用していたのでした。
しかも、そのいろの一色一色が複数の色を調合したものであり、そういう意味ではきっと30色以上の色が使われていると思われます。


似たような色でも微妙な色の使い分けをしていて、そこに製作者の込めた想い、熱意があるのです。



きっと私は人と会っていても、モノと対面しても、自意識満々でそれを見て、その本質、素晴らしさを見ていないのかもしれないと思いました。
そう、表面だけで判断するのではなく、その奥の本質を見ようとする姿勢がものすごく大事だということに改めて気づいたのです。
そしてその全ての本質は「愛」であり、「光」なのだと思います。
これに気づけただけでも、失敗だと思っていたことは実に失敗ではなく、本当に人生はすべてにおいて受け取るものが存在している
ということもまた、深く落とし込めたのでした。


今日はこの辺で


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